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京都の庭園の随筆
石をたてん事
マーク・ピーター・キーン著
セルデン・恭子訳
書 原田 観峰
日本庭園に魅せられた米国の
造園建築家がつづる庭園をめぐる
珠玉のエッセイ集
184頁
定価1575円(税込み)
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流れ
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庭には、縁先に座る私のすぐ向こうに、丸く剪定された椿の木があり、その大きな楕円形のつぼみは先端を緑に尖らせ、つややかな
濃緑の葉の中から顔をのぞかせている。つぼみはみな、今にも蛾となって飛び立とうとする蚕の繭のようにふくらんでいる。とりわ
けそのひとつは今まさに開花寸前、花を包む濃い緑の萼がゆるんで、薄桃の花びらを見せようとしている。心を誘われ、私はじっと
待つ。花の開くところを見たい。花はたしかに美しいだろうが、花自体に興味があるのではない。むしろ、その瞬間が待たれるのだ
。つぼみが樹液をこころゆくまで吸って、にわかに変貌し開花する、その瞬間が待たれるのだ。
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結界
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庭には池があり、寺と向こうの岡辺との間に、ほどよく挿まれている。蓮の葉のくぼみに宿った露のようだと思う。それは液状の水
銀のように輝き、仏陀の心のように清らかだ。池の後ろには繁った林があり、池に影を落としているが、右側は木々がややまばらと
なり、苔庭につながる。そこには古色蒼然たる本堂が立っている。境内の木立は、林の木々ほど密生していないだけに大きく成長し
て堂々と枝を張り、梢は苔むす地面からはるか上まで届いている。本堂で私が座っているあたりからは、縁側ぞいの何本かの垂直の
柱が、庭のまっすぐのびた茶色の杉の幹と呼応している。二つの林がここにある。生きている林と木材の姿での林と。
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円をとじる
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イギリスの彫刻家ヘンリー・ムーアは、石膏の型を彫っているときに経験したことを語っている。彫刻刀で石膏の白いかたまりの中
を奥へ奥へと彫り下げ、陰影を深めていたのだが、その時、思いがけず向こう側を突き破ってしまった。彫っていたうつろが穴とな
り、向こう側から光がさしこんできたのだという。新しい、未探検の世界をのぞき込んでいるような感じがしたのではなかろうか。
完成した作品はもっとずっと大きいブロンズの彫刻で、それにもその時の穴が残っている。しかし穴を開けながら彼が経験した、最
後の薄い層を貫いて光明へ達した瞬間の天啓はない。創造の過程の結果はそれを見る人にも示されるが、創造の瞬間自体は示されな
いのだ。ならば、創造の瞬間に、なにか全くそれだけに関わる、個人的な、他へ移すことの出来ないものがあるはずだ。だから私は
砂を掃くのが好きなのだ。何度でも繰り返し使える画布として、砂は創造の瞬間を無限に提供する。
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木々
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私は桜の樹皮に手を走らせ、そっと叩いてその密度を感じとった。築地塀の木の周りの隙にも軽く触れてみた。その曲線の形自体に、
木と塀を隔てもすれば一体にもする姿に、ことばがあった。それは形を与えられた意図といってもよく、声には出さない豊かな表現
が込められていた。庭の持ち主には選択があったはずだ。木を切るか、塀に間隙を作るか。棟梁にとっては木を切る方が楽だったろう。
しかし二人は木を尊重する方を選んだ。桜の樹齢のため、毎年春に惜しみなく咲いて小道を彩る花のため、そして仕事の手間より木が
与える喜びの方が大きかったためである。ある意味で、いかに小さな意味であるにもせよ、その木は彼らにとって冒すべからざるもの
であった。
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層
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雨は止んだ。降り出すのが速かったように、止むのも速かった。水のほとりに戻り、私はぬれた岩の上に腰をかけて蓮を上から下までス
ケッチする。開いた花、緑に挿まれた大きな楕円形の蕾、限りなく重なり合う葉のかたまり。その下の影になったところでは、茎が水中
へ垂れ、そのまた下の暗やみへと遠ざかる。下の日光が翳るあたりで、なにか遅い流れがぼんやりと泥の中に現われる。それは力を増し、
もつれ合った根の方から私の方へ意図的に動き、上ってくる。褐色の鯉である。鮮やかな色模様の種類の鯉ではなく、野生の、布袋のよ
うに肥えたやつだ。ふらりと向きを変え、尾で蹴る毎に沈泥の雲を巻き起こす。行きつ戻りつくねりながら、鯉は蓮の陰を出たり入った
りする。今ここかと思うと、もう姿が見えない。
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バランス
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庭石は心を休めてくれる。その沈黙の存在はなぜか頼もしい。私は石にもっと近付こうと、濡れ縁に座る。水に入ってさわやかになる必要
のないまま海辺に座る人のような感じだ。石は影を投げ、砂の上に暗い三日月形を作っている。石は茶色だが皆同じ色合いではなく、赤み
がかったのもあれば、暗褐色のもある。どれもごつごつして角張っている。石の不均衡な並べ方は緊張感を生み出し、庭に視覚的な生命力
を与えており、それは山々を霧の中に点在させる墨絵の描き方を思わせる。長い年月、この庭は様々に説明されてきたが、その意味はまだ
はっきりしない。しかし不均衡の持つ力というものへの本来的理解はここにも適用できるだろう。設計のモデルとなった山水画に適用でき
るのと同じである。自然界は、梅の花が無常を象徴し、流水が不断の変化を見せてくれるというふうに、さまざまのシンボルやモティーフ
を備えている。しかし、自然の風景自体も、有無を言わせぬ哲学を、単一の力強い思考を、与えてくれる。それは、
不均衡とはエネルギーだということだ。
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石をたてん事
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庭作りをこの石で始めるわけだ。それをどこに置くかで後のものが決まる。これは千年前にこの都に住んだ貴族たちの作庭を踏襲するやり方
だ。貴族たちも邸宅に庭を作った。ただし、造園と言う言葉はなく、たんに「石を立てんこと」といった。立石は造園芸術にとって根本的な
ことであったから、それが造園の過程を定義し、石と言う媒介をとおして当時の設計者たちは庭に様々な意味を織り込んだ。一つの石を立て
てそれを須弥山と名付けた。須弥山とは仏教とヒンズー教の宇宙論において中央に位置する山である。石をもう一つ置いて、不動明王と名付
けた。悪の世界を懲らしめる仏教の神である。さらに石を置いて風の吹きすさぶ荒磯のイメージを呼び起こし、報われぬ恋の空しさとみじめ
な寂しさを寓意的に表現した。家のまわりに特定の色の石をいくつか置き、古代中国の陰陽五行の規則に基づいて生命力の流れの釣り合いを
取ろうとした。それらの石は様々な力強い意味合いで息づいていたが、そうした文化的な感情以上に、石は共同作業のあかしであり、更に
さかのぼれば、野生の自然への象徴的なつながりである
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冬の緑
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雪の下で、庭はどんな微細な面にでも生きている。ツツジの中には小鳥の巣が安全に隠れているのを、私は知っている。枝を刈り込んでいる時
にそれを見つけたから。ツツジの隣にある石の腹には、三本の長い刻み目があり、それが雨をとらえて滝のように落とす。私はそれも見たこと
があるし、景色として夢見たこともある。縁側の脇の椿には何百というつぼみがついており、春になるとだれも見ていない時にひとつひとつ開
くはずだ。こういうことを、私は知っているが、さらにそれ以上を想像することもできる。雪の重みできつく押しつけられた巣の中の柔らかな
羽。石の割れ目の中深く、自分自身の真綿の中にくるまれ、冬の寒さからしっかり守られている蜘蛛。無数のうつろの細胞の中を通ってかすか
に流れる樹液。土を生み出す菌類の網。青白い蝉の幼虫は凍った土の中で体を丸め、樹液を飲み、春を待つ思いで管状の心臓を脈打たせている。
緑の苔がすきとおった光の中でキラキラしている。庭は冬に被われてかくれている。が、それでも庭は震え、無数の奥まったところで入り交じ
り、豊かに生きている。春はその覆いを引きはがし、庭の姿を現すだろう。しかしなぜか私はこのままの方が好きなのだ。庭は今、暗示される
だけで、余白にしか、間接的にしか、ものを言わない。探し求めてごらん、内面にあるものを想像してごらん、と誘いかけている。
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